夜明け

フランスの国境近くの街での勤務は3ヶ月。

私は期間限定で配置されたが、もうすぐ代わりの者と交代だ。

長かったような短かったような

アトスと逢えないのは淋しいけれど、仕事だし、この街はパリよりは穏やかで、

けど田舎よりは繁栄している。

そこそこ馴染んできた頃だったらか、もう戻るのかなんて思ったりもする。

交代の者がやって来たら、引継ぎや荷物の整理などパリに向かう手筈はついている。

交代要員は、もうパリを出発しているだろうから、もうそろそろだろうか

そう思っていた頃に、やっと代わりの者がやって来た。

あれ?

ポルトスもいる

「よお」

相変わらず元気そうだな。

「交代要員って、もしかしてポルトス?」

「いや、俺は同行者」

同行者

私の時は勝手に行ってくれとばかりに、一人で送り出されたのに、ずいぶんと扱いが違うじゃないか

そうは思うが、ポルトスが連れて来た交代要員と一緒に運搬してきた荷物の量が尋常ではない。

確かに一人じゃ無理か

簡単な引継ぎを終え、明日にはポルトスと一緒にパリに戻ることにした。

任務地での最後の夜はポルトスと酒を飲みながら、近況を聞く。

パリは至って平和そうで何よりだ。

それにしてもよく食べるこれも相変わらずだ。

苦笑する。

「ああそうだ」

ポルトスが肉を片手に思い出したように口を開いた。

「アトスさ、記憶喪失だってよ」

は?

思わず持ってたグラスを落としそうになった。

今、なんと?

ポルトスはその一言で済ませ、肉の骨を皿に放った。

話の続きをするどころか、新しい肉に手を伸ばしている。

え?

聞き間違い?

「この肉、美味いな」

咀嚼しながらポルトスが言う。

え?

そっち?

「ポルトス今、何て言った?」

「この肉、絶品だよ」

「肉じゃなくてその前

今、肉なんてどうでもいい

「あ?アトスのことか?」

そうだよ

さっき、さらりとすごいこと言わなかった?

「アトスがどうしたって?」

「だからさ、記憶喪失なんだってよ」

ふーん

へぇ

記憶喪失ねぇ

私は立ち上がって、ポルトスの握っているフォークを強引に奪い取った

「なんだ?どうした?」

「なんだじゃないだろ!?」

って言うか、のんびり食べてる場合かよ

「その話、ちゃんと説明してくれないかな

奪い取ったフォークの先をポルトスに向ける。

 

 

経緯は聞いた。

全て聞いた。

なんで詳しい話をする前に、のんびり肉なんか食べてられるんだ

いやその前に、そんな大事な話は私に会った瞬間に報告すべきじゃないのか

まあ

聞けば、大事には至ってないらしいけど

ポルトスの話では、ルーブル宮殿の補修工事を行っていた付近を、高齢の従僕が歩いていた時、

その工事に使う材木が、ちゃんと固定されていなかったのか崩れてきたらしく

その場面にたまたま遭遇したアトスが庇って頭を打ったらしい

半日ほど意識がなかったらしいが、命に別状もなく、大きな怪我もなかった。

だが、目覚めた時には記憶が無かったと

「いや、もうびっくりだよなぁ」

びっくりしたなら、真っ先に言えよ

「いやさ、記憶喪失ったって、ここ数年の記憶がすっぽ抜けているだけで、銃士としての仕事は

相変わらず完璧だし、あんまいつもと変わんないからさ」

ここ数年

どうやらポルトスのことは覚えているらしい。

けど

「アラミスやダルタニャンの記憶が抜けてるんだよなぁ

どこが、いつもと変わらないんだ

相変わらずの呑気さにイラりとする。

話の続きを聞くと、アトスの記憶の境界線はポルトスと同僚銃士ってところまで。

私が銃士になる前あたりから、頭を打った日までの期間がすっぽりと失せているらしい。

だから、その期間に入隊した銃士はアトスにとって初対面みたいなもんだと

ダルタニャンなんかショックで落ち込みはしたものの、今ではアトスに自分を認めてもらおうと

懸命にアトスにくっついて仕事しているらしい。

アトス自身は銃士として現役で行動していた記憶は残っているし、特に不便もなく

自分が覚えていなくても、相手が覚えているので、一緒に仕事する際は

自然に馴染んで何の支障もなく仕事していると

「で、記憶は戻るの?」

「なんでも、そのうち戻るかもしれないし、このままかもしれないしって話だぞ」

「とんだヤブ医者だ」

「でもさ、相変わらず頭は切れるし、語彙力もある。記憶喪失って言われても、なんだかピンと

こないんだよな」

確かに、そういうアトスは想像できる

ただ、想像できないのは私のことを覚えてないこと

「本当に覚えてないの?」

「そうだなぁアラミスの名前出しても反応ないなぁだから三銃士ってワードも反応ないな」

「覚えてないけど、銃士としてのアトスは完璧なんだ

「仕事の面で、不安要素はないなぁ

私が難しい顔をして考え込んでしまったからだろうか、ポルトスは

「お前がパリに戻る頃には、もう記憶が戻っていて、何事もなかったような顔してるかもよ」

なんて明るく言う。

「そうであって欲しいけどね

「明日は予定通りに出発するので、俺はもう寝るからな。お前も早く休めよ」

そんなポルトスの言葉も、半分耳に入って来ず

アトス

覚えてないとか冗談じゃないんだけど

やり場のない憂鬱が私を襲う。

大きな溜息しか出ない。

とりあえずパリに戻ろう

戻るしかないのだ。

 

 

        ※※※※※※※※

 

 

どうやら俺は記憶喪失らしい。

任務中の事故で頭を打って、ここ数年の記憶を失ったらしいが、銃士としては

特に支障がないのは正直なところだ。

確かに見知った銃士仲間が、かなり前に退役したとか、新しい銃士がいるとか

その辺の情報は錯綜はしているが、隊長は相変わらずだし、ポルトスも相変わらずで

食欲旺盛で俺のことを心配している感じでもないが、まあ、いつも通りなんだという事で

不安になる要素があまりない。

ダルタニャンという若い銃士は、俺が覚えていないことに、最初は気落ちしていたが、

気を取り直して自己アピールと、アクティブな行動がなかなか愉快でいい後輩が入ってくれたと思う。

だが、そのダルタニャンの口から漏れる三銃士というワード

はじめは、俺とポルトスとダルタニャンのことを総称しての呼び名だと思っていたのだが

どうやら違うらしい。

「アラミスだよ」

ダルタニャンは淋しそうな目をして呟いた。

アラミス

ダルタニャン同様、思い出せない。

なんでも、銃士としての付き合いはダルタニャンより長いと

今は別任務で地方にいると

逢ったら思い出せるだろうか

アラミスか

銃士としては、かなりの腕前だと

そうか

思い出せないが、実力ある銃士隊員が在籍しているのはいいことだ。

 

 

パリを一望できるモンマルトルの丘は、ここ最近、よく足を運ぶ。

銃士に入った頃は、パリを一望するなんて意識して行動したことがない。

蘇らない記憶を取り戻すための引き金になればと思って、たまにこのように足を運ぶが、

残念ことに、あまり効果はないようだ。

この景色を眺めても、自身の何かに触れることは正直ないが、

この場所は静かで、考え事をするには丁度いい

自分は何のためにパリに来たのか

何のために銃士になったのか

その辺の記憶はしっかりと覚えている。

どうせ忘れるなら、あの忌々しい記憶を忘れたかったがな

ずいぶんと中途半端な記憶喪失に陥ってしまったと思う。

だが、今となってはもうどうしようもないので、ただ足の向くまま丘を登るのだ。

ダルタニャンは、記憶を失った俺のことを、過剰な程に心配してくれているが、

今現在、何も困ったことはない。

確かに、見知らぬ銃士も多々いたが、相手は俺を知っていたので、やり易かったし、

一緒に仕事をした瞬間から、もう見知らぬ銃士ではない。

銃士の業務は、基本は何も変わらないのだ。

それに、銃士隊は厩舎が新しくなったこと以外、外装も内装も何も変わってはいない。

自宅の家具の配置も何も変わってはいない。

ただ、記憶喪失になってからは、若干物足りなさを感じるが、それが何なのかは分からない。

記憶が無いからと悲観に暮れる必要はなく、それどころか記憶が戻らなくても、

銃士として問題なく生きていけそうだな

だが俺はずいぶんと長い年月を銃士として生きているな

何故だろう

自分自身で覚えていないし、誰かに聞くワケにもいかないがな

確かにパリでの生活に期間を決めていたワケではないが、いずれ戻らなきゃならない場所がある。

そんなことを考えながら、もう少しで丘の頂上に到着する寸前、

急に強い風が吹いて樹々が鳴り、鳥達が一斉に飛び立つ。

頭を下げて帽子を押さえる。

強風が落ち着いたので、顔を上げると丘の上に人の姿。

先客がいたのか

遠目だが、背格好からして成人男性ってところか

足を進めると、真っ直ぐにパリを一望しているその先客の横顔に目を奪われる。

着ている服は男物だが

剣帯に立派な剣を吊り下げてはいるが

靡く髪が眩しい程に美しい

誰だ

こんな目立つ者はパリでは見たことがない

って言っても、俺は記憶喪失真っ最中なので、なんとも言えんがな

しかし妙に雰囲気のある容姿だ

思わず注視してしまう

その時、端正な横顔がすっと俺の方を向いた。

青い綺麗な瞳

「先客がいたとは邪魔して申し訳ない

相手は無言だ。

ただ真っ直ぐに俺を見詰めてる。

着ている衣服や、吊り下げている剣

金の髪に白い肌

思わず息を呑む。

世の中には様々な事情があるのも承知している。

人生とはそういうものだと達観している

思うところはあるが

「風強いから帽子、気を付けた方がいいよ

その言い方には、まるで初対面の気配がない。

俺の知り合いかのか?

だが、知り合いにしては掴みどころのない会話だ

警戒心を抱くワケではないが

「俺は銃士のアトスだ

名乗ると、先客は視線をまたパリの街並みに向けながら

「アトス

と、呟きながら振り向いた。

眩しいのか、大きな瞳が細められるでも、その青さは綺麗だと思った

綺麗な青

まるで涙がたまっているかのような青

「俺は君と初対面だろうか

そう尋ねると、

「アトスがそう思うなら、そうなんじゃない

抑揚ない返事

「君は誰だ

最初からそう問えば良かったのだ。

しばしの沈黙

そして、引き結んだ口を、ようやく開いた。

「私はアラミスだよ

アラミス

思わず言葉を失う。

「今日、任務先から戻ったばかりで、久々にパリを一望していたところなんだ

そうして、パリの眺望を背に歩き出す。

「移動で疲れたから、明日は一日休んで明後日から出勤するよ

明後日

「じゃあね」

そう言いながら、俺と擦れ違う

言葉が出ない

ただ、去っていく姿を見ているだけしかできなかった。

 

 

アラミス

あれがアラミスなのか

ダルタニャンからは散々聞かされたその名、その武勇伝。

麗しいとは聞いてはいたが、俺の想像した人物像とは全く違っていた。

銃士だと?

俺達は三銃士と呼称されてて、数々の功績だと?

思わず片手で顔を覆う。

俺は自身の記憶喪失がどうこよりも、まず頭の中を整理しなきゃならなくなった。

 

 

        ※※※※※※※※

 

 

アラミスが銃士隊に復帰してから1週間。

この1週間、俺はアラミスを観察していた。

任務報告、市内見回り、国王の護衛、後輩銃士の指南

当たり前だが剣技も馬術も完璧。

そりゃそうだ銃士だからな

皆、アラミスが銃士で在ることに誰も違和感を感じていない。

確かに着ている服は男物で、正装のカサックを身に纏えば、パリジェンヌ達が悲鳴を上げる程に麗しい。

だが、行動は凛々しく勇敢で、判断能力にも長けているし、躊躇いなく銃だって撃つ。

有能な麗しい銃士

確かにそうだろう

ここまでの立ち位置になるまでに、一体どれ程の辛酸を嘗めてきたのだろうか

何も思い出せていない俺がどうこう言える立場ではない

隊長はどうだろう

ヘンに探りを入れて、話が拗れると面倒なので静観しているが

アラミスは俺達と共に戦争や内乱を潜り抜けてきたのだろうか

じゃなきゃ、今、こうしてここにはいないか

実力はある。

度胸もある。

だがよく今まで生きてきたな

俺は今までどのように接していたのだろう

直接聞いてみればいいのだが、正直、どうも躊躇われる

 

 

詰所に戻ると、アラミスが長椅子に座り何やら手紙を読んでいた。

読み終わると、溜息を吐きながら手紙を折り畳む。

「どうした?悪い知らせでもあったか?」

アラミスは俺をちらりと見

「これは恋文

恋文

差出人はどっちなのだろう

なんて、つい下世話なことを思ってしまった。

「さっき、銃士隊に戻る時に、知らないご令嬢から渡された

そうか

ご令嬢か

俺は何で安堵しているのだろう。

確かに、パリジェンヌ達には絶大な人気だ。

恋文だって貰うだろうな

どう対処しているかまでは知らんが

「お前なら誠実な対応しているんだろうな

何気に放った俺の言葉に、再び俺に視線を向けたアラミスは

「まあね

抑揚なく応える。

そういえばアラミスは、記憶喪失という失態について、一切俺に触れてこない。

ポルトスから聞いて、勿論知っているだろうし、市内見回りで知らない橋に戸惑うと、

この橋は3年前に出来たばかりで近道になるよと、淡々と教えてくれる。

そう淡々とだ。

アラミスを覚えていない俺に対して、大丈夫とか、思い出せとか、

ダルタニャンみたいに悲しそうな目をするとかそんなことも一切ない。

アラミスは紙にさらさらと文字を書き始めた。

どうやら返事のようだ。

察するに、やんわりと謙虚に謝絶するのだろう。

確かに、パリジェンヌとアラミスでラブストーリーが始まるとは思えない。

筆を進めながら、何度か瞬きをすると長い睫毛が揺れる。

日々の鍛錬は怠たることはないのだろう隙らしい隙は見当たらない。

身軽さと剣技と男物の衣服で身体の線の細さをカバーできている。

アラミスは綺麗だ。

男も女もアラミスを目で追う理由がわかる。

けど、本人は呆れるほど自覚がないらしい。

ただ安心なのは、銃士隊の仲間達がアラミスを見る目に含むものはない。

まあ、アラミスが強すぎるってこともあるんだろうけどな

書き慣れているのか、定型文でもあるのか、意外に早く書き終えたアラミスは丁寧に封をしながら

午後の見回りの際に届けに行くと言う

「それって勤務内の行動じゃないのか?」

「見回りのついでだよ」

「午後の見回りの同行者は俺だが

「だから付き合ってよ」

まあこれくらいはいいか

見回りと称しながら息抜きしている銃士は実は沢山いるのを知っている。

「だから今日の見回りは早く出よう」

アラミスが俺を促す。

なんとなく流されるまま帽子を手に取った。

いつの間にか、アラミスが隣に居た。

左側に感じるのは、僅かなアラミスの体温

何故だろう。

近すぎるとは思えなかった。

これが正しい。

この距離感が正しい。

思考の奥で何かが光って、そう訴えている。

 

 

        ※※※※※※※※

 

 

ポルトスやダルタニャンは、俺の空白の期間の話を沢山してくれるので

客観的は、そうなんだなと思える。

特に三銃士、もしくは四銃士として共に行動し、難しい任務や戦争を潜り抜けてきたと

だが残念なことに、俺はダルタニャンやアラミスの存在に、どこか懐かしく感じることもなく、

二人を知っているような感覚に襲われたこともない。

少しでも、その片鱗が頭の隅にあればいいのだが

正直にそう言うと、ダルタニャンは泣きそうな顔を我慢しながら笑うのは、少々心苦しい。

逆にアラミスは俺の記憶喪失に関して一切触れてこないし、その三銃士として活躍したであろう

武勇伝の話もしない。

アラミスが銃士だという現実は、そのまま受け入れる。

その実力は十分に兼ね備えているのだから、今更問うことはない。

ただ正直、これでいいのだろうかと思う。

どのような経緯でアラミスが銃士なのか、俺は把握していたのかもしれない。

自分が思い出せない今、それを問うのはいかがなものかと思うし、アラミスの方からも

何も言わないのだから、そこは触れない。

だが、どうしても気になることがあった。

ある日、厩舎で馬の手入れをしているアラミスがいたので聞いてみることにした。

「アラミス」

「なに」

動かす手を止めないままアラミスは応えた。

「君は今幸せか?」

アラミスの手がピタリと止まった。

そして、俺の問いには応えずに再び黙々と手を動かす。

「アラミス?」

「それ応えなきゃダメ?」

なんだか、随分と自分がおかしな事を言っている気がしてきた。

「いや

思わず目を逸らす。

「幸せそうに見える?」

今の俺には、アラミスがどんな生い立ちだったのか、詳しくは知らない。

なぜ銃士として生きているのか知らない。

過去に何かしらあったのは予想がつく。

とてつもなく大きな渦中を経ての今なのだろう。

記憶を失う前の俺は、アラミスの心中を少しでも軽くしてあげることができていたのだろうか

「すまない不躾な事を聞いた

アラミスは無言で、再び馬の手入れを始めた。

「記憶喪失の俺に対しては、何も触れてこないんだな

「思い出してって言えば思い出すの?」

まあ確かに

「情報を与えたって、本人が思い出さないと意味ないんじゃない」

「正論だな」

思わず苦笑する。

「俺はアラミスといろんな話をしたのだろうか

問うつもりはなく、思わず独り言のように呟いた。

「したよ沢山

そして俺の目を、アラミスは真っ直ぐに見据え、

「だから同じ話はもうしない

「厳しいな」

「アトス程じゃないよ」

そう言って微笑むアラミスを素直に綺麗だと思う。

そのまま厩舎から馬を出し、仕事の為にルーブルに向かいながら考える。

そうか

俺は厳しいのか

それとも揶揄われてるのか

思い出すと含み笑いが漏れた。

思えば不思議な女だ

俺が今まで出会った、どの女とも違う

まあ、銃士をやっている女なんてそんな簡単に巡り逢わないか

俺の知る女というのは好意を抱いてもいない特定の男に、女を匂わせて近付き、

男のテリトリーに入り込み、俺の全てを己のものにしようとする

どうせ記憶を失うなら、そっちの記憶もきれいさっぱり失ってしまいたかったがな

銃士隊に入って仕事に埋没した日々を送れば、それ以外とは深く交わる事はないと

そう思っていた筈だ

だが現状として、アラミスは銃士隊という場に何の抵抗もなく存在している。

そして俺はそれを何故か容認している

自分でも上手く説明出来ないがアラミスを受け入れている

 

 

それから数ヶ月程は何の変化も起こらず、淡々と時が流れ、俺の記憶はそのまま戻らず

だが、今の状況が続いても仕事には何の支障もなく、俺が記憶を失った後から出会った仲間達とも

この数ヶ月で交流を深めることができている。

自分の年齢を頭の中で何度も復唱するくらいで、今のところ何の不便もない。

今は仕事で数名の銃士達とフランス北西部の港湾に位置する都市、ル・アーヴルに滞在していた。

港町というのは、いろいろ他国からの怪しい輸入品もあり、定期的に調査している。

滞在予定は数日。

調査はそんなに大変な仕事ではないが、大きなものを移動させる時だけは難儀する。

それでも今回は違法なものはなさそうだ。

前回は、粗末な改造銃が発見され、ヘタに触ると暴発の危険があって大変だった。

だがその記憶はたぶん、俺が銃士隊に入ってまだ数年くらいの話だと思うが

今となってはだいぶ昔の話になるのだろう

調査は無事に終了し、明日はパリに予定通り戻る手筈となった。

 

 

任務地の最後の夜、どうにも寝付けなく、ウトウトしては目が覚める

それを何度か繰り返し、俺はとうとう寝るのを諦めた。

外が薄暗い。

もうすぐ夜明けだ

俺は外に出て、少し小高い場所から海を眺めた。

薄暗いが、目の前で、キラキラと海が輝いているように感じる。

水平線に潮騒自分の故郷とパリにはないものだ。

不意に視線を流すと、波止場の奥の方でアラミスが海を見詰めていた。

こんな時間に

とは思ったものの、俺も人のことは言えないか

苦笑する。

視界に入る、潮風に靡く髪が相変わらず綺麗だと思った。

満潮の時間からさほど経っていない為、波がかなり近いところまで来ている。

薄明かりの中、俺はアラミスの方に向かって歩いていた。

アラミスは遠くの海を眺めているので、俺には気付いてはいないようで

だが、近付く俺の気配に、ゆっくりと後ろを振り向く。

俺の姿を見ても、さほど驚いてもいないようだった。

「随分と早起きだな」

「アトスは寝てないんじゃない?」

「まあな

そしてアラミスの隣に立ち、

「夜明けだな

水平線から昇ってくる朝陽に魅入るかのように、アラミスは黙って頷いた。

俺も、その眩しさに僅かに目を細めるものの、なんとなく、今、この瞬間、

目を離すのは惜しいような気がして、しばらくの間、黙って眼の前の光景を眺め続けた。

隣に立つ彼女とこうやって一緒にいつまでも見続けていたい

そんなことを思ってしまう。

逢った瞬間から知っていたアラミスは女性だと

「俺は知ってたんだ

「そう

抑揚のないアラミスの声。

空は徐々に眩しい光を放ち、一面に光が溢れ出す。

「気付いたんじゃなく知っていた

「それで?」

「なんで知ってたんだろう

「それ、本人に聞く?」

「だよな

何も思い出したワケじゃない。

何ひとつ答えは出ていない。

だが思い出せない焦燥感や苛立ちもない。

今あるのは、目の前の海のような穏やかな感覚だけ

そんな自分の横に居るアラミスの横顔は無防備で

いつも張り詰めた緊張感を感じていた。

それだけ、日々に気を張っているのだろう当然だ。

なのに今は無防備すぎて俺の神経をざわめかせる。

その気になれば、その身体を片手でだって包み込むことは簡単だ。

だが

そんなことをしてはならない

俺は一体

アラミスは海の方を見ながら

「パリに戻る準備があるから、先に戻る

そう言い、浜辺に向かって歩き出した。

そんな姿を俺は目で追うだけしかできない

軽く息を吐き、視線を海に戻す。

まだ少し眩しさを感じ、何度か瞬きをする。

そしてその先に見えた景色に思わず息を呑む。

 

 

少しだけ荒れた海の上の船

遠ざかる孤島に佇む古城

あれは

ベル・イールか

俺の隣でその景色を食い入るように見詰める姿

だが、顔は見えない

長い前髪が影をつくっている上に逆光で、どんな表情をしているのか、判別がつかなかった。

鮮やかな金色の髪

その髪に、触れたいそんな衝動にかられる。

表情は見えないが、頬を伝って零れ落ちる涙

「ずっとこの日の為に生きてきたんだけどね達成感って湧かないものだね

「それでもお前は成し遂げた

遠ざかる景色を見詰めていた瞳は、いつの間にか俺を見ていた。

「ちょっと疲れたかなぁ

ゆっくりと、その瞳が細められる。

俺は黙ってその薄い肩を寄せる


そこで視覚的な記憶が途切れる。

後はもう、波の音や海鳥の鳴き声、船の汽笛、あの時の世界の気配

そういうのが、緩やかに遠ざかっていくのを感じるばかりだった

 

 

気付けば俺は波止場を駆けていた。

さっきまで傍に居たアラミスの背中を追っていた。

俺の気配に気付いたアラミスが振り返る前に、その手首をグッと握った。

驚いたアラミスの金髪が大きく靡く。

「アラミスか

そこに存在しているのは、俺の大切な人生の一部であり最愛の人

ほんの数秒の間があって、それから憮然と応える。

「そうだよ

鮮明に思い出した俺は、これでもけっこう嬉しいのだが、アラミスは塩対応だ。

「ずいぶんと時間がかかったね」

「ずいぶん、非協力的な対応されたと思うが

「そう?ちゃんとアラミスって名乗ったよ」

別にダルタニャンみたいな、初対面じゃないってアピールを望んていたワケではないが

まあこの状況じゃあ、思い出せない俺は悪くないとう状況を覆すことは難しそうだ。

「あのさぁちっとも覚えてないアトスに、自己紹介から始めるなんて、そんな滑稽な事する気力、

湧くワケないだろ」

これは逆ギレなんだろうか

とりあえず反論しても得は無さそうだな

「まあでもそれでも思ったよりずっと早く思い出してくれたみたいだし

そこで大きく気を吐き

「許してあげるよ

と、微笑んだ。

なぜ上からと思うところはあるが、ようやく見せてくれた笑顔を曇らせることはしたくない。

「何がきっかけだったの?」

「説明が難しいな

「ふーん

海風が金髪を揺らす。

「なあ抱き締めていいか?」

その体温を丸ごと腕の中に包み込んで、お前の存在を確かめたい。

「ダメ全然ダメだから

問わずに強引に抱き締めればよかったと苦笑する。

「ここは任務地。そして外。誰に見られるか分からない普通にダメだろ」

真面目か

それでも掴んだ手首を引っ張る。

きっと拒否はしない

お前のことはわかっている

ちゃんと知っている

良い所も悪い所も

それくらい長く一緒に居た

「最初から拒否権ないなら聞かないでよ

俺の腕の中で苦情を言いながらも、ゆっくりと俺の背に手を回してくる。

キスしたい欲望にかられるが、正直なところ、安心が先に来る。

俺の腕の中に居ることに安心する。

そして、本来の自分に戻っていく感覚…

自分という人間に、ようやく追いついたような気持ちだった。

「俺は麗しい同僚銃士に手を出していたんだな

「そう銃士隊一の知恵者に手を出されていたんだよ

お互いに笑うしかない。

俺はもう、何でも良かった。

思い出したし、出逢えている。

あとはもうずっと一緒に生きるだけだから

その辺の話を付けるのはこれからだが

 

 

        ※※※※※※※※

 

 

パリに戻ってから、報告やら書類やらに追われてバタバタした数日を過ごし

ようやく、退勤間際の詰所の中でポルトスに記憶が戻ったと伝えた。

覚えてない時の俺を見て、ダルタニャンが心底がっかりしていたのを見ていたので

彼にもきちんと報告して心配かけてすまなかったと、ねぎらいの言葉を掛けようと思っていたら

退勤の為に同僚が集まっていた詰所でポルトスが突然、大きく叫んだ。

「おーい!」

仲間の注目がポルトスに集まる。

「アトス、記憶戻ったってよ」

おまえ

唖然とする俺に、仲間達のテンションが急上昇し、万歳三唱でもしかねない盛り上がりだ

幸い、気になっていたダルタニャンも涙を浮かべて良かったと何度も言い、

俺の事思い出したんだよね?

と、何度も噛み締めるように訊ねるのだから、そこでようやく申し訳ない気持ちにはなる

アラミスは

この光景を若干冷めた目で眺めながら帰り支度をし

「お疲れ

と、さっさと退勤してしまったのだ。

同僚達が盛り上がっている中、俺は適当に巻いて銃士隊を後にした。

先に退勤したアラミスを追い駆ける。

まだそんなに経ってないから追い付くだろう

いた

「アラミス!」

ゆっくりと振り向き金髪が揺れた光景は、あの時の波止場の時と同じだと思った。

「飲みに行ったんじゃなかったの?」

「そんな話は出ていたが、明日は日勤だから別日で頼むと言ってきた」

「ふーん」

そこで会話は途切れ、俺達は夜道を歩く。

アラミスの横顔を盗み見る

記憶が無い時と、戻った時

どっちの俺も差異はないと思っているような雰囲気だな…

俺の記憶が戻って嬉しくないワケではないのと思うのだが、正直なところ掴みどころがない

「今日は星が少ない

アラミスの呟きに肩を抱き寄せて歩きたい衝動にかられる。

「銃士になったばかりの頃はね夜が怖いと思う時もあったんだ

アラミスがポツリと呟いた。

「でもいつの間にか全然怖くなくなっていた任務でお互いに離れていても

銃士としての実力が増してくると、心も勇ましくなっていく

そんな話だと思ってた

「でもねまた怖くなったんだよね

アラミスは足を止めて夜空を見上げる。

「アトスが私を覚えてないと知った日からまた怖くなったんだ

「アラミス

心の端が苦くて痛い。

実際に俺はアラミスを覚えていなかった。

こんなに愛しているのに思い出せなかった

「夜が怖いなんて銃士の風上にも置けないから、怖くないふりしてた

そう静かに笑う表情が余りにも切なかった。

 

 

        ※※※※※※※※

 

 

復讐を誓ってパリに出て来たくせに、あの頃の私は夜が怖かった。

不安で壊れそうだった。

けれどいつの間にか薄れて行ったのは、仲間達との喧騒や鍛錬の日々で

怖いと感じる暇さえないのかとそう思ってた。

夜の畏怖を克服し、復讐を果たし奴の最期を

あの圧倒的な光景を見届けた。

胸を張って生きて行けばいいのに

アトスが私を覚えてない

それだけで、夜の畏怖に苛まれる日々に戻るなんて

克服したなんてどの口が言ってるんだか

彼の記憶はなかなか戻らず

アトスは私を思い出したくないのかと

そんなことを思ったりもした。

何もかも、憶測でしかない

憶測は、意味を持たない

私は拗ねていたのかもしれない

認めたくないけれど

記憶をなくしても、いつも通り飄々としているアトスの様子に

彼にとって自分の存在は一体何だったのだろうと

そう詰め寄りたいけれど、そんなことしても意味ないのは承知

なので深呼吸して呼吸を整え、私は私を覚えてない男と一定の距離を取ることにした。

けれどなんだろう

アトスが私を思い出したその日から、夜への畏怖が消えた。

自分でも驚く程

そして、もっと驚愕だったのは

アトスの存在がそれほどまでに自分の中で大きかったのだと

あの瞬間、確かに感じた

染み渡るような安堵。

そして平常心を保てる夜

悔しい

それはある意味、私の知らない私が在るのだと知ったのだから

他には何がある?

私の知らない私は他にどのくらいある

アトスの記憶が戻ったのは嬉しいけれど、私はそんな思いを抱きながら悶々としていた。

「まだ夜が怖いか?」

熱い眼差しを私に向けながらアトスが問う。

私は小さく首を振った。

「ただ悔しい

声が震える

「アトスに自分の存在を忘れられたら、私は生きていけない程に苦しいのだと知ったから

アトスの手が私をそっと引き寄せる

「こんなこと言わせないでよ

私の涙が零れそうなことに気付いたのか、アトスは私の顔を肩に押し付けた。

「悪かった

私の頭をそっと撫でる手が優しくて、涙が伝う

「ずっとお前と共に生きていきたいんだ

「でもつい先日まで忘れていたじゃないか

随分と意地悪を言っている自覚はある。

「そう言われると困ったな

アトスは私を離し、向き直った。

そして切なそうに笑い

「お前に泣かれるとお手上げだそれでも俺はお前が好きだよ

「それだけ?」

「正直言うと記憶を失っててもお前に心惹かれてた

そう言って、私の頬を指先で撫でる。

「ならそう言ってよ

私の無茶振りにアトスは苦笑しながら

「で?」

と、問う。

私は上目でアトスを見やり

「仕方ないから一緒にいてあげるよ

アトスは再び私を抱き締め

「懐かしいと言うか久しぶりと言うか取り戻した感じだな

私は、ちょっとだけ泣きそうになったけど、そこを何とか堪えてアトスの背に腕を回した。

 

 

遠い過去の日々を思い出す。

限られた時間の中、精一杯の想いを重ねたあわせた切なくも愛しい時間

寄り添った肌の温もり

喪った時の絶望

忘れてはいない。

忘れられる筈がない。

全てが私の中にある。

その全てを抱いて、アトスと生きて行こう

私達はまだ、始まったばかりだ。

これから続いていく未来

どんな未来が待っているにせよ、二人でいられるなら世界の誰より幸福に決まっている。

そう笑うアトスを見ていたら、確かにそうかもと。

そう思えるのだから、不思議なものだと思う。

アトスは私の左手を掬い取り、誓うように薬指に口付ける。

滅多に口にしない言葉を囁きながら、私の身体を抱き寄せて、二人でベッドに身体を沈ませてゆく

どちらからともなく口付けながら、せわしなく素肌を暴いてゆく。

冷たい外気に触れた肌は、すぐに熱の中に溶けていく

不思議なもので、こうして彼に抱かれていると、世界がいつもとは全く違うものが見えた。

不意に込み上げてきた熱いものに胸が震える。

消えそうな命の灯を、ただ泣き叫んでるしかなかったあの頃とは違うのだ。

いつもよりも世界が鮮やかに見える

 

 

隣で眠っているアトスを見て安堵し、私はベッドから抜け出した。

窓から夜の景色を眺める。

暗いけれど、怖さなどは感じない。

私は護られているんだな

不意に背中からブランケットを掛けられた

「風邪ひくぞ

いつの間に起きてたアトスが囁く。

わかってる

今、繋がっている温度が大切だという事を

ちゃんとわかっている

得た未来

これからずっと共に生きていけるなら、それ以外、何も望みはしないと思う。

幸せだと心から思えたから

「何処にも行かないでくれ

「何処かに行ってたのはアトスの方だよ

「それを言われるとお手上げだ

そう言いながら背中から私を包む。

私達は小さく笑った。

 

 

FIN


記憶喪失ネタ、アトス編です(笑)

実は、もうずーっと昔、四半世紀以上も前に創ったアトス記憶喪失ネタの

二次小説がありまして、大幅改善も視野に入れた手直しを…と思っていたのですが

ダメだ…ダメでした…

昔の自分の作品が恥ずかしすぎて、直すどころか目を通すことさえできない(駄)

意を決して内容を確認しようとしても、羞恥に悶える(笑)

いや、本当にもう、こっぱずかしいの極致でして…

そんな悶える日々を送りながらも、結局触ることができず…

なので、新しいアトス記憶喪失ネタの二次小説を創ってしまいました(汗)

きっと、この作品も数年後には恥ずかしくて、自分では読めなくなっているような気がしますが…

とりあえず、2023年を締め括りたいと思います。

来年もよろしくお願いします。